戦国武将家紋ストラップ100選 その15 前田利家
戦国武将家紋ストラップ100選 その14 森蘭丸
戦国武将家紋ストラップ100選 その14は 森蘭丸の「森鶴丸」(もりつるまる)紋です 森蘭丸(本当は乱丸、ですが今回は馴染みの蘭丸で行きます) 織田信長に仕えた小姓として有名ですよね。信長は自分が持っているもので自慢できるのは 白斑の鷹・青の馬・小姓の森蘭丸 と言わしめたほど気に入られていたようですね。
蘭丸の父、森可成も信長の家臣で信頼も厚かったようです。森可成が使っていた鶴丸紋と森蘭丸が使っていた「森蘭丸」は微妙に違います。羽の枚数が「森鶴丸」の方が多いのです。ほんとによく見なきゃ分からない違いですが、違うのです。
この家紋、歴代で一番作るのが大変でした。微妙に左右対称じゃないし。これが作れたんだから、もうどんな家紋でも作る自信があります。
戦国武将家紋ストラップ100選 その13 明智光秀
戦国武将家紋ストラップ その13は今最も旬な戦国武将、明智光秀公の「桔梗」(ききょう)紋です。 実は明智光秀が使用していた「桔梗」紋は非常に珍しい特徴があり、なんと本来は色つきなのです。水色の桔梗紋が正式に使用していたそうです。色つきの家紋なんて、正直これ以外見たことがありません。とても目立つこの家紋を見て、織田信長もうらやましがったのだとか。
桔梗の文字を分解すると「木」「吉」「木」「更」となり「更に吉」(さらによし)と縁起を担いだとも言われ、多くの戦国武将が桔梗紋を使っていました。代表的な方だと、加藤清正・坂本竜馬・太田道灌など。メインで使っている家紋ともう一つ、いわゆる裏紋として使用していたようですね。
なぜ水色の色つき紋になったかといえば、戦国時代より前の時代土岐一族が「桔梗一揆」という武士団を作っていて、その桔梗紋が水色だったそうです。そこから土岐氏の庶派だった明智へとつながっていきます。
戦国武将家紋ストラップ100選 その12 長宗我部元親
戦国武将家紋ストラップ100選 その12は 四国の覇者、長宗我部元親公の「七つ片喰」(ななつかたばみ)です。長宗我部初代が天皇より土地を賜った時の盃に片喰の葉が浮かんでいた その事からこの家紋と使うようになったそうです。
長宗我部元親はこの他にも「帆懸船」(ほかけぶね)紋と「慈姑」(くわい)紋も使っています。帆懸船紋もカッコイイですよ。100選を全部紹介し終わったら作ろうかな。
まったく関係ない話ですが、ファミコンの〈信長の野望全国版〉で私が天下を取ったのが長宗我部元親でした。ほんとに関係ない話ですいません。。。
戦国武将家紋ストラップ100選 その11 竹中半兵衛
戦国武将家紋ストラップ100選 その11は竹中半兵衛公の「九枚笹」(くまいささ)です。
軍師として名高い竹中半兵衛、その10で紹介した黒田官兵衛とは固い絆で結ばれていたと言われており、黒田官兵衛が裏切ったと誤解されて、織田信長に人質に出してい官兵衛の長男が殺されそうになった時、これをかばって生きながらえさせていたエピソードは有名ですね。
36歳の若さで亡くなっていますが、もっと長生きしていたら、秀吉の治世ももっと無かったのではと言われています。そして竹中半兵衛はもうもう一つ家紋を持っていました。 それば「黒餅」といって、黒田官兵衛の時に紹介した「白餅」の色違いみたいな家紋です。
この「黒餅」も潔いほどシンプルな家紋でしたので、あえて100選には入れませんでした。「黒餅」紋も石持ちに繋がるとして戦国武将にの家紋だったそうです。
戦国武将家紋ストラップ100選 その10 黒田官兵衛
戦国武将家紋ストラップ100選 その10は黒田官兵衛公の「藤巴」(ふじともえ)です。
荒木村重の説得に失敗しおよそ一年間幽閉されていた時に、牢獄からわずか見えた藤に生きる希望をもらい、救出された後は迷わず「藤巴」を家紋に選んだ。というエピソードが有名ですね。大河ドラマの時も描かれていました。
しかし、このエピソードどうやら俗説らしく、黒田家は幽閉される前から「藤巴」を家紋として使っていました。秀吉の配下として一万石を拝領し大名となった後は「白餅」という家紋を正式な家紋として使っています。
この「白餅」紋は「城持ち」にもつながると、新興大名には大人気だったようですね。戦国武将家紋ストラップ100選には「白餅」は入れておりません。なぜって、潔いほどシンプルすぎる家紋なので・・・気になった方は調べてみて下さいな。
戦国武将家紋ストラップ100選 その9 今川義元
戦国武将家紋ストラップ100選 その9は今川義元公の「赤鳥紋」(あかどりもん)です。
今川義元は家紋を3つ持っていて、そのうちの一つですね。馬印としても使っていています。ちなみにあと二つは「丸に二つ引両」と「五七花桐」です。
「丸に二つ引両」は室町幕府を興した足利将軍家が使っていた家紋で今川家は足利将軍家の分家の分家にあたります。「五七花桐」は「五七の桐」とはかなり微妙にデザインが違うのです。
この「赤鳥紋」どうみても鳥の形には見えないんですが、実は赤鳥は「垢取り」に由来し、もともとは馬と鞍の間に敷くブランケットみたいなものの形から来ているようですね。
有名な桶狭間の戦いで敗れなければ、当時三好三人称などに牛耳られていた室町幕府を再興させ(乗っ取って!?)征夷大将軍になっていたのかも。